空気は煙と絶望の刺激的な匂いで満ちていた。遠くで鳴り響くサイレンの音が、叫び声と爆発音の混沌にかき消されていく。
人々は砕けたガラスとねじれた金属の上をよろめきながら進み、その顔は恐怖と灰に染まっていた。影が炎の橙色の輝きの中で狂ったように踊り、かつて誇り高かった建物を貪りながら崩れ落ちていく。
混乱の中、大地が震え、空を裂くような不吉な咆哮が響き渡った。それはまるで、この世界そのものが苦痛に叫んでいるかのようだった。
そして突然、景色が一変した。
荒廃した光景は、儚い悪夢のように消え去り、満開の桜の木の下に広がる静寂へと変わった。風に乗って花びらが優雅に舞い、その淡い桃色は、先ほどまでの燃え盛る破壊の光景とは対照的だった。
そこに、一本の桜の木の下で、ひとりの少女が立っていた。
彼女の微笑みは温かく、優しく光を放ち、彼をまっすぐに見つめながら静かに囁いた。
「私たちの約束…忘れないでね、ダイチ。」
彼が応える前に、彼女の姿は砕け散り、光と影の欠片となって消え去った。
—
「はっ…!」
ダイチはカプセルのようなベッドの中で目を覚ました。暗闇の中で、視界がゆっくりと焦点を合わせていく。
深い沈黙が辺りを支配していた。まるで世界が呼吸の仕方を忘れてしまったかのように。音のない空間が耳を圧迫し、自分の鼓動だけが響く。いや、それを鼓動と呼べるのかすら分からなかった。
最初は何も感じなかった。しかし次第に冷たさが身体を蝕んでいく。氷のような金属が肌ではなく、何かもっと硬く、異質なものへと突き刺さるように。
朦朧としながら、彼は震える手をゆっくりと持ち上げた。その動きは鈍く、不自然だった。そっと胸に触れる。指先に伝わる感触は、滑らかで、あまりにも人間離れしたものだった。
そして彼はそれを感じた。完璧な円形の――空洞を。
息が詰まる。
意識の奥底から、恐ろしい理解が這い上がってくる。
「…これは…?」
かすれた声が口をついた。しかし、その音はどこか違和感があった。人間のものとは言い切れない。言葉の奥に微かに響く機械的な歪み。まるで古いラジオのノイズのような音が混ざっていた。
その瞬間、胸の奥に冷たい恐怖が駆け抜けた。
記憶が浮かび上がる。断片的で、儚く、掴めそうで掴めない。
暖かく、優しく響く笑い声。桜の甘い香り。光と動きに満ちた世界――だが、まぶたを開けた瞬間、その世界はすでに失われていた。
頭上には、果てしなく広がる灰色の空。重く、息苦しい。まるで天すらも地を見放したかのように。空気は錆びと灰の金属的な味がした。
彼の周囲には、崩壊した文明が広がっていた。
朽ちかけた建物が傾きながらも、互いにすがるように立っている。緑のツタが壁を這い、その生命力がかえって破壊の跡を際立たせていた。
放置された車が道を埋め、その表面は錆び付き、窓は砕けて鋭い牙のように残っている。
すぐそばには、忘れ去られたぬいぐるみのクマが落ちていた。縫い目のほつれた体。ボタンの瞳は、ただ空を見つめていた。
ダイチは指をこめかみに押し当て、荒い息を吐いた。鋭く焼けつくような痛みが頭を貫く。
「私たちの約束…忘れないでね、ダイチ。」
女性の声。優しく、どこか懐かしい。
その言葉は彼の意識に染み込んでいく。甘く、切なく、それでいて遠い。決して消え去らない残響のように。
「約束…何を…?」
かすれた声で呟く。混乱に震える声が、自分のものとは思えなかった。
再び痛みが襲いかかる。
激流のように脳内をかき乱し、ダイチは頭を抱え込んだ。記憶がノイズと化し、世界は沈黙に支配されていく。
「…誰か?」
声を振り絞るように呼びかけた。しかしその声は不自然に響き、廃墟に反射して虚しく空間に溶けていく。
「誰か…いないのか?」
静寂の中、耳を澄ませる。
しかし、返事はない。かすかな囁きすらも。
孤独の重圧が、冷たく彼を締めつけるようだった。
ぼんやりとした意識の中で、ダイチはなんとか立ち上がる。
鈍く、重い。まるで、自分の体が別のものになったような違和感。
ふと視線を落とすと、破れた衣服の下で、かすかに光るものが見えた。
躊躇いながら、震える手で布をめくる。指先が触れたのは、冷たく、硬質な感触――
ワイヤー。金属の装甲。
そこに"肉"はなかった。
そこに"温もり"はなかった。
息が詰まる。
喉の奥から、言いようのない恐怖がこみ上げてくる。
「俺は…何なんだ?」
かすれた声が零れる。
けれど、頭の中では無数の疑問が暴風のように渦巻いていた。
足を踏み出す。ぎこちなく、不安定な動き。
崩れた舗道に足音が響く。乾いた、空虚な音が、死んだ世界の中に溶け込んでいく。
廃墟はどこまでも続いていた。
記憶の墓標のように、朽ちたまま時を止めている。
左手には倒れた街灯。
割れた電球が、かすかに点滅していた。まるで消えかけの鼓動のように。
正面には廃れたスーパーの建物。
空っぽの棚、汚れた窓。かつての賑わいは、影すら残っていない。
「おい!」
ダイチは叫んだ。声が掠れ、必死の響きを帯びる。
「誰かいるなら、返事をしろ!」
風が答えた。
金属の軋む音、頭上で揺れる壊れかけの看板。
虚無が、彼を嘲笑う。
「…クソッ!」
怒りに任せ、壁を拳で殴りつけた。
鈍い衝撃音。
コンクリートに無数の亀裂が走り、粉塵が舞い落ちる。
ダイチは、自らの手を見下ろした。
傷一つない。痛みも、感覚もない。
あるのは――ただ冷たい現実だけ。
膝をつく。
頭を垂れ、かすかに息を吐く。
「俺は…何なんだ…?」
震える声で呟く。
だが、今度こそ、沈黙すらも答えてはくれなかった。