海が青いと思っているのは人間だけだ。
30メートル辺りまでは確かに青い。そこまでは人間の世界になっているからな。エアが切れてもまだ浮き上がれるし、水圧で関節が軋むこともない。
海中もにぎやかで、マンタが羽ばたき、細長いヤガラや丸々と太ったハギとアジが傍らをすっ飛んでいく。海底をなぞればアナゴが顔を引っ込め、白化したサンゴの森を訪れると生き残ったコーラルフィッシュたちがたくましく生きている。
だが50メートルを過ぎれば、黒々とした地球の腹がすべてを飲み込んでしまう。
そんなことを考えていると、ステンレスのソールが硬いものを踏んだ。
足を上げて確認すると、どうやら藻類の堆積物のようだった。深度600メートルの水圧で圧縮されてミルフィーユのようになった石灰質が、足裏をぼろぼろと剥がれていく。
べつだん珍しくもないので耐圧ケースを担ぎ直し、そっとあくびをかみ殺した。
「あ、もう通せました。所詮21世紀のシステムですね」
インカムからシャノンの声が飛び出し、非常灯の赤い光が辺りを照らす。来た道の方角に、踏み固めたばかりのマリンスノーが点々と浮かび上がった。
ロックスの口笛が止まる。「……現在時刻、1520。作業を開始します」
シャノンがくすくすと笑った。
「今の曲、『冒険野郎』だった?」
減圧室の中でたっぷり2週間も見せられたドラマだ。ヘルメット越しにロックスが渋い顔になる。
「仕方ないじゃないですか。もうリチャードディーンのツラが頭から抜けないんですよ……」
「上には『スローンズ』にしとけって言うべきだったかな」
「連作ドラマは見逃したら面倒くさいので結構です。話も無駄にフクザツだし――」
「任務中だ。うるさいぞ」
僕は舌打ちしてエアロックのハンドルに手を掛けた。
ニューヨーク市を出発して1ヶ月。
ユニオンが探査船を調達したというので、プランはすべて前倒しで進んだ。
サルベージされた記録によると、『レガシィ・プロジェクト』はバイオスフィア3実験の一環で実施されていたらしい。もっとも、思うような結果が出ず、早々に予算は打ち切られていたようだ。
バイオスフィア3の方だったら僕も聞いたことがある。
海底のドーム内だけで完結させた地球環境のミニチュア。未来の地球を先取りするという名目で作った楽園は、地球環境の悪化につれてどんどん荒廃していった……と。
エアロック内の海水が抜けて、ロックスが耐圧ケースを下ろした。
てきぱきと中身のライフルを組み立てて、最後にケースレス弾薬の弾倉をバレル上部に差し込む。シェルスーツの肩をストラップに通したとき、眼帯が斜めにずれた。反射的に彼女が上げた手がヘルメットにぶつかる。
「もう外して大丈夫ですよ」
シャノンがヘルメットのフェイスプレートを跳ね上げた。彼の浅黒い顔が笑みを浮かべるのを見て、僕たちもプレートを上げた。
初めに感じたのは粘ついた空気だった。
切ったシイタケのような甘い香りに、顔を打つ暖かい風。森の香りだ、と気付くまで少しかかった。
「酸素の供給元はプラントじゃないのか」
「いえ……通路側の空気を引き込んだだけですが」
シャノンが唇を撫ぜる。グローブに付いていた塩の跡がくっきりと残った。
まだ新鮮な空気が回っている。この実験施設の中で、今でも何かが生きているということだ。
僕も自分のライフルを組み立てるついでに、防弾プレートをシェルスーツのポーチに差し込んだ。
「腐葉土のにおいだ。生態系がまだ循環している」
「本当ですか?」
ロックスに目配せして正面ドアを開けさせる。
手狭な連絡通路は一見すると変わった様子はなかった。
暗闇に足を踏み入れた途端、減圧症で気が遠くなった。さっさとフェイスプレートを下ろし、セカンドステージレギュレータを開く。ぜえぜえと喘いでいると、ロックスが先に進んでクリアリングを始めた。
「サー、大丈夫ですか」
後から来たシャノンが肩を貸してくれた。
「ああ。血液が沸騰してしまった……」
「深海用のヘリウムブラッドがあったはずですが。替えなかったんですか」
「腎臓の規格が古いんだ」僕は笑みを作った。「MILスペックの血だと、身体が対応できない」
2人で進んでいくと、ロックスは通路の突き当たりで立ち尽くしていた。
エントランスホールに繋がるゲートが開いていて、彼女が投げ込んだケミカルライトの緑色の光が漏れている。そのホタルのような光に照らされて、彼女は何かを見上げたまま口を開けていた。
「報告しろ」
僕が通信を入れると、やっと我に返ったようだった。
「えっと……樹が見えます。たぶんサクラかケヤキです……1本だけで立ち枯れてます」
「何があったか簡潔に言え」
「分かりません」
ロックスが振り向く。泣きそうな顔になっているのが薄暗闇の中でも分かった。
「光ってます。あれ、何ですか?」
エントランスホールは土で覆われていた。ゼニゴケ、シダ、イシクラゲ。湿気とわずかな光で育つ生物の死骸がそのままの形で積み重なって、その上に嫌光性の苔がコロニーを作っている。
あちこちでコバエが飛び交っていた。
広間の中央では、大樹が床を突き破ったまま腐って甘い香りを放っていた。その表皮もヒカリゴケと粘菌がびっしりと埋め尽くしていて、ときおり成長しきったヤスデが通るたびに脈打つように光が揺らいだ。
「地熱発電機が機能しているようです」
シャノンがナイフで地面を掘り起こして、目の高さに持っていく。
「環境収容力を超える前に、まとめて枯死している……ここの照明に寿命が来たのは8年前ってところでしょう」
「『家の電気を点けっぱなし』で職員がここを離れたってこと?」
ロックスが2本目のケミカルライトを折りながら言った。ぶん投げられたライトの軌跡が、壁を覆う菌糸のシルエットを照らし出す。
「さあ。放棄されたときの記録なんてどれも曖昧で、細かいところはどうだか……」
「だから私たち、急ぎすぎなんだって」
ロックスは睨むように僕を見た。
「隊長、生存者が残っているときの手順は?」
「ここに人間はいない」
僕はライフルに暗視スコープを取り付けた。ハンドルを引いて弾を薬室に送る。
生存者のことは、もちろん可能性として考えていることだった。
回答も用意済みだ。
「もし生きているやつがいても、もう人間とは見なされない」
広間の脇にある事務室は比較的マシな状態で残っていて、そこが今日のキャンプ地になった。
フェイスプレートを上げると、もう息苦しさは無かった。
携帯ランプに照らされた粘菌は原色のイエローをしていた。触ると思いのほか脆くて、指の上で埃のように崩れてしまった。
「さっきの話ですけど、殺すってことですか」
向かいでチョコバーをかじりながらロックスが言う。
僕が黙って見つめ返すと、彼女は眼帯を外してマガジンラックに入れた。白く沸いた片目がゆっくりと開く。
「私、ただの調査だと思ってました」
「そのときの話ってだけだ」
まだ彼女が不満そうだったので、僕はライフルを置いて座り直した。
「どのみち僕の命令だ。きみが責任を負う必要はない」
「分かってますよ。尉官って軍隊が部下に撃たせるためにいるんでしょう? 私が言いたいのは、こんなテキトーな情報ばっかりでまともに調査させる気があるのかってことです」
「無いんだろう。だからテキトーにやってる」
そのときシャノンが偵察から戻ってきた。慌ててロックスが眼帯を着け直す。
「来てください、隊長」
声が上ずっていた。彼は耐圧ケースを開くと、いそいそとスーツに防弾プレートを差し始めた。
「敵か?」
「弾痕です。誰かがライフルを撃ってます」
ポーチを閉じるなり彼はかぶりを振った。
「我々より先に、武装した誰かが来たんです」